世界保健機関(WHO)は「健康」を以下のように定義しています。 「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます」
なるほど。
「病気がない」だけでは健康とは言えないのですね。病気はないけれども、心が満たされていない人はたくさんいます。病気はないけれども、社会的に満たされていない人もたくさんいます。
アーユルヴェーダの「健康」の定義はさらにハードルが高くなります。 すべてのドーシャのバランスがとれていて、ダートゥ(組織)のバランスがとれていて、排泄にも問題がなく、消化力も適切に強く(弱くても強すぎてもダメ)、心が満たされていて、魂も満たされている。これを全部クリアして健康と言えるのです。
現代の意識高い系の人たちは体の栄養には敏感です。だからこそ、いろいろな食事法が巷に溢れています。糖質カット食がいいとか、グルテンフリー食がいいとか、縄文食がいいとか。まあ、それぞれに一長一短があります。どの食事法も抜け落ちていることがあります。「食べ物」の定義です。
たいていの人は、口から入れるものを食べ物と考えるでしょう。(この話では胃ろうはテーマ外ね)しかしアーユルヴェーダでは、知覚器官から取り込まれるものすべてを食べ物とみなします。知覚器官とは視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚のこと。これらを通して体に入ってくるものは全部食べ物です。
何にとっての食べ物?体と心にとっての食べ物です。「ネットゲームをやりすぎて満腹」というのは視覚から入る食べ物が多すぎるのですね。知覚器官から取り込まれる食べ物が良質のものであれば、体と心も豊かに滋養されます。知覚器官から取り込まれる食べ物がジャンクフードのような質の悪いものであれば、体と心にゴミと毒素が溜まります。
心の栄養はほかにもあります。 睡眠です。深い睡眠は心を滋養し幸福感をもたらしてくれます。不眠がつらいのは、心の栄養が不足するからです。
では魂にとっての栄養はなんでしょうか。ステーキ?ピザ?お寿司?「愛」です。 愛を与えられた経験がないと感じている人は魂レベルで栄養失調になっています。たとえ社会的ステータスを得ている人であっても、幸福感を得ることはできないでしょう。
アーユルヴェーダは体レベル、心レベル、魂レベルで栄養を与える方法を教えてくれます。 今日もある行政の方とアーユルヴェーダについてお話しました。「ヨガは少なくとも形が見えるのでわかりやすい。それに対してアーユルヴェーダには形がないのでわかりにくいのかもしれません」と私は言いました。 アーユルヴェーダには生きることのすべてがかかわっているので形がないのです。それだけアーユルヴェーダは奥が深いということです。私たちの生き方に無限の可能性を与えてくれます。